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今日は、私の天敵である「意義意義」言ってくる先生に研究相談をしてきました。
清水の舞台から飛び降りました。ええ。
なんというか、ちゃんと外交をしようと思ったんです。
相手に何にも言わず、限界まで不満を内に溜めて、最終的にぶちキレるのは、
卑怯だと思ったんです。
だから、キレる前に本人に苦情を言って、すり合わせをしようと思ったんです。
あと、事前に自分の考えを伝えておけば、発表の時に「意義意義」言われなくて済むかなーと。
まあ、要するに根回しですよね。
その結果、卒論で悩んでいたことがほぼ解決しました。
びっくりです。
外交はちゃんとしなきゃダメですね。
*
今回は私が何を悩んでいたのか、ぜんぶ書こうと思います。
携帯とかにメモ書きとかでもいいのですが、それだと文章をかっこつけてしまいそうで・・・
誰かが見るブログにあげるのだと思うと、一から順に書けそうな気がするのです。
長文になるかと思いますが、お付き合いください。
*
明治時代の初めらへんに外務省が初めて出来ました。
その時の外務卿(今で言う外務大臣)は沢宣嘉(さわ・のぶよし)という人でした。
このブログを読んでいるみなさんにとって、まったく馴染みがない名前だと思います。
日本史の研究の中でも、まったく注目されていない人です。
研究者はその前後に起こった神戸事件や堺事件、岩倉使節団にばかり注目します。
教科書に載っているくらい有名な出来事ですから、
研究者が注目するのも無理はありません。
確かに、沢宣嘉が外務卿であった時代に、大きな事件はありませんでした。
「この外交を失敗したら日本がなくなる・・・っ!」とかいう危機的な状況はありませんでした。
どちらかというと、内政の不備(偽造貨幣の問題など)に、
イギリスやアメリカなど各国の駐日公使がいちゃもんをつけてくる。
それを話し合ったりして解決するという問題ばかりでした。
しかし、外務省が組織として整えられたり、
万国公法(今で言う国際法)を使った近代的な外交が始まったりしたのは、沢宣嘉が外務卿であった時代です。
また、不平等条約が改正できるようになるまであと3年、という微妙な時代でもありました。
外務省としても、日本外交としても大事な時代。
そんな時代に外務省のトップだったのに、沢宣嘉の研究はまったくされていません。
彼がどんな人間で、どんな思想を持っていて、外務卿としてどう働いたのか、
役に立ったのか立たなかったのか、などなど・・・
外務省のはじまり、大きく言うならば近代日本外交のはじまりを知るのに、
沢宣嘉の研究は必要不可欠なのです。
*
・・・たぶん。
うん、卒論が完成したわけでもないのに言い切る勇気はない。
上にあげた内容は先生がまとめてくれたものを、私なりの言葉で言いかえたものです。
先生は、私がつたない言葉でもにゃもにゃ伝えたことを見事にまとめてくれました。
やっぱ専門の学者ってすごいなぁ・・・
今回、「意義意義」の先生と膝を突き合わせて話したことで、
ようやく先行研究批判だとか、そこから意義を見いだすということが実感できました。
・・・上にあげた文章から、私の研究はスタートします。
ようやくスタートできます。
なんというか、自分で出来ないことを出来る人に助けてもらうって、
すごく大事なことだと思いました。
やっぱり、素人が独りで出来ることには限界がありました。
以上が、今日あったことのまとめです。
ああ、沢宣嘉の研究って大事なんだなぁと思えた方は、ぜひ拍手してください。
言いたいことが伝わったかどうか、とても知りたいので。
よろしくお願いします(ぺこ
2010/10/06 つれづれ Trackback() Comment(0)
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